翌日の朝。
ふたりは獄寺宅のキッチンにて、気まずい空気を持て余していた。
「………あ、あの…、コーヒー、どうぞ…」
「っ――。、あ、ありがとう……」
昨夜は酒の名残に任せて、お互い激しく身体を重ねた。
しかし酒が抜けてしまえば、初対面の男同士で事に及んだという事実は
気恥ずかしいとかそんな事を通り越して、何とも気まずいものだった。
精液でどろどろの身体をふたり飛び起きるようにして離した。
そして「――…あ、は、ははは………」という乾いた笑いが部屋にこだまする。
お互い男だということは重々承知の上でのことだった筈だから
相手のことを拒絶するなどの反応は起こらなかったが、一体これがどういう心境で起こったことなのか、
恋なのか、愛なのか、それともそれ以外の何かだったのか……。お互い分からないというのが正直なところだった。
「――……沢田さんは朝食、何か召し上がりますか……?
あ、あの、俺…、料理はあんま上手くないッスけど、目玉焼きくらいなら出来ますから……」
「う、ううん、大丈夫。……気にしないで。俺、あんまりお腹減ってないから……。
――…そ、それより、俺、そろそろおいとまするね。コーヒーご馳走様でした」
どもり合いの会話に彼が困ったように席を立ったので、獄寺は慌ててその人の手を取った。
「――…あ、あの、沢田さん。あなたの荷物は昨日店に預けて来ちまったんで……。
少しですけど、これ持ってってください」
そう言って彼の手のひらに一万円札を握らせた。
「――…えっ、…でも」
「……沢田さん、金持ってないでしょう? ……き、昨日、脱がせた時にそれっぽいもんが無かったんで……」
「――っ…!」
「これで家まで帰って、ちゃんとシャワー浴びてください。本当なら俺んちの風呂使ってもらって全然構わないんですけど……」
朝起きて、だいぶひどい有様だった彼に(まぁ、自分もだが)身体をきれいにするために風呂を勧めたのだが
彼は顔を真っ赤にして、その申し出を断った。
……おそらくだが、昨晩彼は自分よりだいぶ酒に酔っていたから、記憶も曖昧で朝の現実を受け入れられなかったのでは……と、思う。
(………まぁ、そうだよな………。男とセックスしたなんて、気持ちワリぃだけか…………)
仕方なく濡れタオルを差し出した俺に、彼はとても申し訳なさそうに謝ると、それを使って身を清めていたようだった。
そのあと返されたタオルは残骸の匂いもしないほどに、綺麗に洗われていた。
「――…ううん、もう十分だよ。……じゃあ、俺、行くね……。ありがとう」
玄関先まで彼を送って、靴を履いている彼のうしろ姿を見つめた。
………俺は昨夜、この人と身体をかさねた………。
男との行為は初めてだったにも関わらず、自分の中で、それは驚くほど自然なことだった気がする。
自分がそちら側の人間だとは思いたくないが、この人との行為は全く嫌なものを感じなかった。
―――…それどころか、この背中を見ているだけで、また手を伸ばしてしまいそうな予感さえ感じるのだ。
「――……気を付けて帰ってください」
「…………うん、さよなら………」
どんな顔をして送ればいいのか逡巡していた俺に、彼は柔らかくて儚い色の瞳をゆっくりと細めて
にっこりと笑った。
そして、まるで風が通り過ぎていくように自然な仕草で、俺に背を向けた。
――――…俺は、彼の姿が見えなくなるまで、その背中をずっと、視線で追いかけていた…―――。
それから一週間後の金曜日。
時刻は夕方の5時半。空は曇天で雨が降っていた。
獄寺は重たい足取りで、先週のこの日に彼と出会った飲み屋へと向かっていた。
まだ時間的に早いとは思ったけれど、どうしても我慢できずに会社を飛び出してきた。
―――けれど、彼が営業するであろう飲み屋の敷地が近付くにつれて
足は鉛のように重く、進みもずいぶん遅くなった。
あの日、焦るようにふたり別れた日から、彼とは一度も顔を合わせていなかった。
と言うか、彼がどこで仕事をしているとか、どこに住んでいるとか、それどころか連絡先さえ知らなかったから
会いに行くすべすら無くて。
――…でも、きっと今日彼はあそこに来るはず。
あれから一週間、獄寺は自分の気持ちを何度も反復していた。
彼とあんなことになって、気まずく別れて、今日会いに行かねば、もう二度と会うことも無くなってしまうかもしれない。
自分と彼の関係なんて、今はそんなものなのだ。
――あの日、彼を抱いた時、確かにきっかけは自分では無かったけれど、主導権を握っていたのは確かに自分だった。
酒のせいで意識の朦朧としている彼を、有無を言わさず、興奮に任せて抱いた。
彼と身体を重ねることは何故かとてもしっくりくるような気がして、その身体を手放せなかった。
ずっと抱いていたいと望んで、恐らくこんなこと初めてだった彼に無理をさせた。
行為のあと、気を失うように眠りについた彼を、おかしな執着でも感じるように、強く強く抱き締めて眠った。
…………たぶん、自分はあの時彼に恋をした、んだろうと思う。
そうでなければ不自然だ。こんなこと……。
獄寺はせつなく締めつける胸のあたりを、クッと強く握りしめた。
――飲み屋に着くとまだ扉は閉まったままで、彼が仕事をするのだろうその場所も空いたままだった。
「………やっぱり、まだ早かったか………」
彼がもし、こんな自分を見つけたらどう思うだろう。
気持ち悪いと罵るだろうか。
帰ってくれと拒否するだろうか。
………それとも、前のように笑ってくれるだろうか……。
「……まぁ、いい返事は期待してないけどな……」
上着の内ポケットからタバコを取り出して火を付ける。
ふぅっと、紫煙が渦を巻いて雨に溶けて行った。
「―――…獄寺、さん……?」
ふいにあの人の声が聞こえたような気がして、獄寺がゆっくりと振り返ると、
―――先週と同じように大きなトランクを抱えて透明のビニール傘をさした彼が、驚いたように目を見開いたまま
数メートル先から自分のことを見つめていた。
「…………さわだ、さん……」
しとしとと降り続く雨の中、見つめ合ったまま動きを止めてしまった彼らを、通行人が訝しげな表情を浮かべて通り過ぎてゆく。
彼を目にした途端、心臓がとくとくと軽快な音を立てて走り始める。
(―――…あぁ、やっぱり俺は、この人に………)
「…………こんばんは、今日は、あいにくの雨、ですね……」
緊張のあまり、まるで社交辞令のような言葉を口にした獄寺に、彼はさらにきょとんとした顔をして
「……そうですね、雨の日はちょっと寒いですね」
なんて、すこし嬉しそうに頬を染めながら笑い返してくれたのだ。
「!! ―――…………はい、寒いです、ね……」
そんな彼の表情に見入ってしまいながら応えると、彼はすたすたと獄寺のすぐそばまで歩を進めて
「……? 獄寺さん、大丈夫ですか?…顔が、すごく赤いですけど……」
「…っ! は、はいっ!大丈夫です。至って健康そのものです…!」
「……ホントですか? なんか心なしか体温も高いですよ?」
細い指をするりと獄寺の首筋に走らせた。
「―――…!!!」
「あぁ、やっぱり。獄寺さん熱ありますよ。……風邪かな?――…それはそうとこんなところにいたら冷えちゃいますね」
彼はしばらく「う〜ん」と考え込むようにしていたが、
「―――…よし!じゃあ俺んち行きましょう。すぐですから」
「…へ?」とか「ええっ?」とか言っている獄寺をなかば強引に、程近くの小さなアパートへと連れ込んだのだった。
「どうぞ、あがってください。獄寺さんちみたいにきれいじゃないですけど……」
「あっ、いえ、……おじゃまします」
間取り1Kの、ひとり暮らし用につくられた部屋にはシングルサイズのベッドがひとつと、ゲーム機の繋がれたちいさなテレビが1台。
それに壁に積まれたマンガ本とゲームソフト。
大人、というよりは年頃の少年の部屋と言った方がしっくりくる部屋だった。
「…すいません、子供っぽいでしょ?……なんかいくつになっても手放せなくって」
「いえっ…!そんなことないですよ…!?――…俺、こういうの出来ないんで、ちょっと憧れちゃいます」
「……そうなんですか?」
「はい、子供の頃は親が厳しくて、年頃の子どもが持ってるようなもの、俺は買ってもらえなかったんです」
「……そう、ですか……」
キッチンにて茶を淹れていた彼は、ちょっとびっくりしたような顔をしたが、ふっと笑顔になると
「―――…はい、紅茶ですけど、よかったらどうぞ」
熱く湯気の上がるカップを差し出した。
「――ありがとうございます…」
俺は床に腰を下ろしてそれを受け取ると、ふぅふぅっと2、3度冷ましてから、そおっと口にした。
「―――…あ、これ……」
「あ、はい。ジンジャーティ―です。はちみつも少し入れちゃったんですけど、………もしかして口に合いませんでしたか……?」
こっくりと甘い味が舌に広がって、のどを潤した。
「いえ、とっても優しい味がして、すごくおいしいです。……ちょっと沢田さんみたいですよね」
ふふふっと笑うと、彼は「えっ」と言って途端に真っ赤になった。
「あっ、いや、変な意味じゃないです……!沢田さんがおいしいとかじゃなくて……!
―――……あ、いや、何言ってんだ?俺…!」
いきなりおかしな流れになり、ふたりして真っ赤になったまま視線を彷徨わせる。
「―――……う、あの……、この間はすみませんでした…。
俺、あなたに同意も求めず、酒でべろべろのあなたを………無理やり」
今しかないと話を切り出した俺に、彼はハッとして顔を上げた。
「………身体、大丈夫でしたか………?……俺、あんまりやさしく出来なくて……」
そう謝った俺に、彼はふるふるっと首を振ると、
「――…えっ…あ、あのっ……、……そ、それ、…無理やりじゃあ、ないですよね………?」
と、すこし悲しそうに言った。
「………どういう意味、ですか…?」
「―――……そのまんまの、意味、です。………あの日、俺はあなたに望んで抱かれたんです。
……絶対、無理やりとかじゃ、ないですよ……?」
そして眉を下げたまま、ふわりと微笑んだ。
――俺は急に胸が苦しくなって、自分の頭に血がのぼるのを感じていた。
「―……俺、獄寺さんが好きです。
あれからいっぱい考えましたけど……、やっぱり、俺、あなたが好きみたいです……」
「――…、本当、ですか?
……だってこの前の朝、沢田さん、目も合わせてくれなかったし……」
「! ……そ、そりゃあ、ものすごく恥ずかしかったし、どんな顔してればいいか分かんなかったから……!」
カチャン、とカップが音を立てた。
俺は目の前にいる人の手をすこし乱暴に引くと、「えっ!?」と腕に飛び込んできたその人を力いっぱい抱きしめた。
「――………あのっ、獄寺さん? …あっ、くるし……」
「―――俺、すごく嬉しいです…!俺も沢田さんが好きです……!
あなたの占い、やっぱり当たってましたね……」
すこし力をゆるめて、その細い身体の首筋に、鼻先を埋めるようにして愛しい人の香りを嗅いだ。
「………沢田さん、やっぱりいいにおいです。……すごく安心します」
くすん、と鼻を鳴らした俺に、彼はそおっと腕をまわすと、きゅっと優しく抱きしめてくれた。
「………俺も、獄寺さんのにおい、好きですよ。カッコイイ男の人の匂いがします」
「ははっ、なんですか?それ」
ぷぷぷっと笑うと彼はちょっと身体を離して、上目遣いに俺の目を覗き込んできた。
「……だって、獄寺さん、すごいモテるでしょう…?
俺、これからがちょっと不安です。………モテる彼氏を持つ女の人って、こんな気持ちなのかな…」
ぷくぅっと頬をふくらましたまま小言を言う彼に、俺はものすごく幸せな気持ちになって
可愛らしい唇にちいさく音を立ててキスをした。
「――…大丈夫ですよ。俺、こう見えてすごく一途なんで」
「っ…! ………うぅ、なんかホント不安になってきました……」
「?」
「――…! だ、か、ら、………俺があなたにハマりすぎちゃいそうで不安なんですってば〜〜……!!」
「―――!!!!」
このあと俺が沢田さんを押し倒したのは言うまでも無く、彼は今日1日、仕事を休まなければならなくなった(赤面)
恋人たちの熱い夜は、まだまだ始まったばかり……―――。
おわり